各地点の説明

尿前の関跡

 伊達藩の尿前境目番所であった、間口40間、奥行44間、面積1760坪、周囲には、切石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内に長屋門・役宅(187坪)厩・土蔵等10棟が建っていた。この関を中心に尿前宿もあった。
 元禄2年(1687)芭蕉と曽良が行脚の途「関守にあやしめられて漸として関をこす」と「奥の細道」に書かれているように、取締りの厳しい番所であった。

尿前の関

 古くからこの周辺は国境として柵が設けられ,天明二年(一七八二年)の「岩手関由来書」(鳴子・肝入遊佐甚之丞)には,「秀衡の世に陳ケ森の陣に多数詰居て(中略)柵のあとありありと残る」とある。
 尿前に番所が建てられたのは,仙台藩の法令「御境目御仕置」から推測すると寛文十年(一六七〇年)ごろと考えられる。岩出山伊達家の職制に「尿前御関所役」とあり,伊達藩から尿前に役人が派遣されていた。芭蕉と曽良がこの関を通ったのは,元禄二年(一六八九年)五月十五日(新暦七月一日)のことである。
芭蕉の「おくのほそ道」には,

 南部道はるかに見やりて岩手の里に泊る 小黒崎水の小嶋を過て
なるこの湯より尿(シト)前の関にかゝりて出羽の国に越むとす 此道旅
人稀なる処なれば関守にあやしめられて漸にして関をこす
(芭蕉自筆奥の細道・岩波書店より)

とあり,曽良の随行日記には,「尿前関所有。断六ヶ敷(ことわりむつかしき)也。出手形ノ用意可有之(これあるべき)也」とある。
当時の番所の規模は明らかではないが,幕末の屋敷は,東西四十四間,南北四十間で,周囲は石垣の上に土塀をめぐらし,屋敷内には,長屋門,役宅,土蔵,板倉,酒蔵など建物十棟があった。長屋門は間口八間・奥行二間,役宅は間口十七間・奥行十一間,土蔵は間口三間・奥行四間で二棟,板倉は七間・三間などというもので,他の番所に比べてもかなり大きな規模を持つものであった。
尿前の関をようやく通された後,直後の薬師坂そして小深沢,大深沢の大難所を越えたにも関わらず,「よしなき山中」の封人の家で三日間も足止めさせられたこの峠越えは,芭蕉と曽良にとって苦難の日々であったろう。

義経伝説 弁慶の船引き

 陸奥の国に入った義経一行は尿前の関守館に旅装束をとき、しばらくぶりに安らぎの一夜を明かした。山の幸・川の幸でもてなしを受け、川下の川原湯に案内された。北の方はことのほか喜ばれ朝な夕な亀若丸と共に入浴して、長途の疲れと産後の回復にしばし留まることになった。毎日の送り迎えは弁慶の日課となった。
以前、上鳴子には船渡・船引という地名があったが、これは北の方の毎日の入浴に弁慶が流れを漕いで船を引いたことからでた地名だという。
その温泉は川原湯(現在の姥の湯)だといわれ、亀若丸を湯に入れて「この地、もはや藤原秀衛の国なれば泣き玉うともはばかることなしと申しければ、始めて泣き玉う」と。故に、「泣き子の湯」といい、瀬見の湯は「なかずの湯」といったという。

鳴子町史より
鳴子町観光協会

薬師堂跡

 薬師堂は安永(1772)以前に、建てられた村の鎮守であった。後お堂は温泉神社に移され、現在は宝珠のみ残っている。尿前境目番所から薬師堂まで1町55間のけわしい坂道で、尿前坂とも薬師坂ともいっている。

小深沢

 小深沢は出羽街道の中で、けわしい沢の一つで、深い谷底へ下りて越さねばならない九十九折りの道である。
 元禄2年(1689)5月 芭蕉と曽良が通った頃は、谷底へ下りて6曲りの坂を上り下りする難所であった。
 元禄古図に「小深沢、歩渡幅2間、深さ2寸、小深沢坂長さ46間、難所御座候」と書かれている。

出羽街道中山越え・大深沢

 陸奥より出羽に通ずるこの街道中、鳴子村には、玉造川歩渡・大谷川歩渡・尿前坂・苗からし坂・小深沢坂・小深沢歩渡・大深沢坂・大深沢歩渡・きね坂・いさこ坂・陣ヶ森坂・軽井沢坂等の坂や歩渡が多く、この街道中最もけわしい道筋である。
 中でも大深沢坂は、安永風土記(1773)に「出羽江之街道尿前通等一之難所、坂沢二面登り下り十丁軍用之所二御座候」と記載され出羽街道中最大の難所である。
 この街道は陸奥と出羽の最低部を通る、多賀城より秋田方面への最短通路であったので、往来は頻繁であり、又軍用上大きな意義をもっていた。大深沢には中世の奥羽騒乱の際に陣地が設けられている。
 戊辰の役(1868)の際には、岩出山領主伊達氏を始め、仙台藩士や家中が、尿前に本陣を置き、小深沢・大深沢・中山宿・陣ヶ森・関沢・羽州笹森・向町に詰番所を構え警備を行った。

中山宿駅跡

 玉造五宿駅(岩出山・下宮・鍛冶屋澤・尿前・中山宿)の一つで、鳴子村尿前の、肝入・検断、遊佐平八郎・平右衛門父子の尽力によって、寛永2年(1625)に設けられ、検断がおかれた。
 幕末には「東西1町1間、南北33間、戸数10戸、人口46人」の規模であったといわれている。

遊佐大神の碑

 鳴子村尿前の、肝入、検断、遊佐平左衛門は、対岸の台地、南原に開田するため、東遠鈴澤から5.732間(1331m)の穴堰を掘り、万治2年(1658)約19年の歳月を要して、引水に成功した。
 幕末に平左衛門の徳をしたい石碑を立て神としてまつった。同じころ、岩渕大明神の碑も立てられた。

義経伝説 中山宿の山神

 義経一行が陣ヶ森で山猿の歓待を受け一夜を明かして中山宿の里へと下ったところ、炭焼き源三の女房おせんという女が難産で難渋していることを聞いた。亀割峠で北の方の産婆役を務めた十郎権頭兼房がその役を買って出、弁慶が栗の木で錫杖を作り、西方浄土を伏し拝んで、諸仏諸菩薩の中でも大慈大悲の深い観世音菩薩を祈り呪文を唱えると、おせんは無事に女子を出産しました。源三をはじめ里人は涙して一行に合掌したという。
後年、その大慈悲を人々に分かつため、弁慶の作った栗の錫杖を本尊として山神社を建立した。
中山では規模の大きい社殿で、祭礼には昔は角力と神楽が奉納され三夜二日行われたが、現在も安産の神として信仰が厚く、妊婦を持つ母親は十月十日の願をかけ、安産を祈願しており、お礼参りも盛んである。

鳴子町史より
鳴子町観光協会

甘酒地蔵

 文治3年(1187)源義経が北の方・武蔵坊弁慶を伴って、平泉に向う途中、日が暮れ、この地に野宿することになった。
 北の方は瀬見の亀割峠でお産をして間もなかったので、近くの山猿に事情を話すと、山猿はお堂を建て、甘酒で接待した。弁慶はお礼に猿の安全を祈りこの地に地蔵尊を祀ったといわれている。

封人の家

「封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋の家、つまりこの旧有路家住宅であったといわれています。
元2二年(1689年)五月一五日、俳聖芭蕉は門人の曾良をともなって仙台領の尿前の関を越え、出羽の国と旅路を急ぎました。しかし、もう日暮れ頃になってしまいました。

「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。
 三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。  蚤虱馬の尿する枕もと  」

と芭蕉は「おくのほそ道」に綴っています。梅雨どきの大雨のため致し方なく十七日まで二泊三日、この家に滞在したのだといわれています。